Julius Röntgen

ユリウス・レントヘン(Julius Röntgen 1855~1932)は、ライプツィヒの音楽一家に生まれました。

X線写真で有名なヴィルヘルム・レントゲン(1845~1923)とは遠い親戚にあたり、ほぼ同時代を生きました。当時でも「有名でない方のレントゲン」と言われたことがあったユリウスは、オランダに帰化したため、レントヘン(レントヒェン)と呼ばれています。

作曲家、ピアニスト、指揮者、そして教育者としてオランダの音楽界に多大な功績を残したレントヘン。

ブラームスやグリーグと親交があり、カール・フレッシュやパブロ・カザルスの伴奏者としても活躍しました。

600を超える膨大な作品を残していますが、残念ながらその存在と作品はあまり知られていません。

私はウィーン留学時代に、彼の「ヴァイオリンとピアノのための作品」をレコーディングする機会に恵まれ、レントヘンに出会いました。

物悲しく哀愁を帯びた旋律、ユーモアと優しさ、クライマックスに突き進む強いエネルギー。彼の音楽の魅力に惹かれた私は、リサイタルで毎回レントヘンの楽曲を演奏しています。レントヘンの素晴らしい音楽をもっと多くの方に知っていただけたら嬉しいです!

Movieページに「無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジー」の演奏がございます。ぜひお聞きください。

レントヘンの生い立ち

1855年5月9日、ライプツィヒ生まれ。

オランダ人の父エンゲルベルトは、世界屈指のゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスター、ドイツ人の母パウリーネ、祖母モリッツもピアニストという音楽一家で育ちました。母と祖母よりピアノの手ほどきを受け、初めての作曲は11歳の時。作品:「2つのヴァイオリンのための4つのデュエット」。その後も音楽学校には行かず、個人レッスンで音楽を学び、ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者であったカール・ライネッケにもピアノと作曲の指導を受けました。15歳の時には、ワイマールのフランツ・リスト(1811~1886)を訪れ、彼の前で2曲演奏しました。


アムステルダムでの活動

1878年、アムステルダムの音楽学校”Maatschappij tot Bevordering der Toonkunst”のピアノ教師に就任。レントヘンは指揮者としても活動し、J.S.バッハ(1685~1750)の「ロ短調ミサ」のオランダ初演を行いました。1884年には、ランス・クーネンやダニエル・ド・ランヘ、ヨハネス・メスチャートらと共にアムステルダム音楽院を設立、以後、長い間音楽院に携わり、1913年から1924年までは理事(managing director)を務めました。


ブラームスとの友好

ヨハネス・ブラームス(1833~1897)と友好的な関係にあったレントヘンは、彼の作品をオランダに紹介するコンサートをいくつか開きました。1884年に、レントヘンはソリストとして、ブラームスのピアノ協奏曲第2番を作曲者の指揮で演奏しました。


グリーグとの友好

エドヴァルド・グリーグ(1843~1907)とは、特に温かい友情を結び、お互いの家を行き来したり、その絆はグリーグが亡くなる1907年まで24年間続きました。1930年にレントヘンはグリーグについての本を出版し、彼の個人的な経験とグリーグ自身の手紙が組み合わされています。レントヘンの作品の中には、グリーグの故郷ノルウェーの民族音楽がたくさん取り入れられています。ヴァイオリンとピアノのための組曲「ヨトゥンヘイムより」は、グリーグの結婚25周年を記念して書かれた作品で、グリーグと一緒にハイキングに行ったノルウェーの山ヨトゥンヘイムの大自然が描かれています。


パブロ・カザルスはじめ偉大な音楽家との室内楽

レントヘンは、ソロピアニストとして、また、その時代の数多くの著名なソリスト、ヨーゼフ・ヨアヒム、ヨハネス・メシャール、カール・フレッシュ、パブロ・カザルスなどの伴奏者としても有名でした。ブラームスは、「これまでこんなに愛を込めて弾かれたピアノパートを聞いたことがない。」とレントヘンのピアノ伴奏者としての才能を称賛しています。


晩年

生涯の最後の数年間は、息子のフランツによって設計された別荘、ビルトーフェンのガウデアムス(Gaudeamus)に住みました。ここで彼は作曲にさらに力を注ぎ、1925年から1932年までの間に200!を超える作品を書きました。ガウデアムスは音楽活動の拠点となり、カザルスを始めとする友人たちを招いて開催されたハウスコンサートや分析コースは、後にガウディアムス財団の活動の先駆けとなりました。1930年、75歳の誕生日には、エジンバラ大学から名誉博士号を授与されました。

1932年9月13日、ユトレヒト没